「須原」とは、ヨシが多い繁っている洲渚(しゅうしょ)を埋めて開田し、集落を形成したことから洲原となり、須原と命名されたといわれています。
右の古い地図を見てみると、この語源のとおり、湖岸にはヨシ原が広がり、エリ漁が営まれていたことが確認できます。 また、少し内陸には水路がひかれ、田畑が耕作されていました。
須原はかつて水田用排水や舟運のためのクリーク(水路)が縦横に走り、水郷の田舎(さと)として、自然に恵まれたのどかな農村風景をたたえていたのです。
中主町内古文書目録 村落編二より 元禄10年(1697年)須原の地図
1800年代半ばには、土地の押収で年貢の増収を見込んだ幕府によって、須原の湖岸の土地は幕領とされたこともありました。しかしそのようなときにも、びわ湖とともに生きてきた須原は幕府から土地を取り戻し、守り受け継いできました。
当時、びわ湖の恵みは次のように利用されていました。
中主町内古文書目録 村落編二より 天保15年(1844年)須原新田の地図
田舟。
これで田んぼと集落を
行き来しました。
田植えの様子。
トラクターなどなく、
すべてが手作業。
村の水路には清水が流れ、
生活用水としても
利用していました。
現・自治会館の前付近
昭和40年代頃の須原は、まだまだ低湿地で、内湖がたくさん残る水郷地帯でした。 やはりクリークは生活に欠かせないものであり、水田用排水や人の移動、農具・牛・田畑の収穫物を田舟で運搬するなど、重要な交通路として活用されていました。
また、びわ湖の魚たちにとって、田んぼは水温が高く外敵の少ない絶好の産卵場所でした。現代と違いクリークと田んぼは水位がほとんど同じだったので、魚が田んぼに入ることは容易だったのです。子どもたちにとって、その魚たちを捕って家に持って帰ることは、最高に楽しい遊びであり、おかずを持ち帰る重要な役割でもありました。
しかし、大雨の度に水害に遭うほか、車での移動と比べると田舟での移動は大変で重労働でした。そこで、昭和47年から琵琶湖総合開発事業の琵琶湖治水とほ場整備による乾田化が始まり、その効果で大型機械の導入が可となり、効率的で合理的な近代農業を営めるようになりました。
ただその一方で、京阪神への交通のアクセスも非常に良くなったことから、若者たちは働く場を都会に求めるなど、農業を離れ、後継者不足という課題が見え始めてきたのです。また、農薬の使用が推奨され生物環境も激変し、かつてみられた子どもたちの魚つかみの風景は見られなくなってしまいました。
そうした危機感のなかで、先祖代々守られてきた水田を、集落全体で次世代に引き継いでいくため、平成19年からはじまったのが「須原 魚のゆりかご水田」です。
畝の左側が水路、右側が水田。